横浜物語-33【昇仙峡】
横浜物語(悪魔のロマンス)-33
次の日、病床の上で純司はまんじりともせずに天井を見つめていた。
(お前そんなにまでして母さんのところに行きたかったのか。)
「純子が呼んだのかねぇ。」
ナオミの声がした。
「俺の母さんはそんなことはしない。生きて、生き抜いて一生涯を味わい尽くした人だ。自ら命を縮めるようなことを望むはずがない。」
「でも、妹は我儘だからねぇ。司朗さんとだけじゃ寂しかったのかも知れないよ。」
「母さんは俺に優を守れと言い残して死んでいった。そんなはずはない。」
「お前は男の子だから母親の気持ちは見抜けないんだよ。」
「どういうことだ?」
「純子は二人の母親だよ。お前には優一を守れと言ったけど、優一にも同じように言うと思うかい?」
「それはないだろうな。」
「お前や私で支えきれなかったから、自分で引き取ることにしたんだよ。」
「ばかな。」
「母親というものはどの子供も同じ目線で見ないの。お前に向き出しにした愛情と陰からそっと優一君を見守っていた感情は別なの。」
「そうだろうけど、だからこそ優を支えろって言い残したんじゃないのか?」
「純司、純子は死ぬ間際に優一君を目一杯抱きしめたかったはずよ。純子の背中を見て育ったお前には我儘を押し付けて死んだけど、優一君に対しては弱い母親でしかなかったの。」
「あの自由で輝いていた母親が弱い母親になるとは思えない。」
「お前も分かってないね。女の愛情は相手に応じて無限の彩りを持つの。夫に対して、好きな男に対して、子供一人一人に対して、放つ情愛はそれぞれ違うわ。純子は強い母親でもか弱い母親でもあったの。」
「俺には理解できない。」
「純子が好きだった曲知ってる?」
「ピアソラをよく聴いてた。」
「アルゼンチンタンゴだけど、普通のタンゴよりもっと自由でしかも哀愁を秘めた曲ね。静寂と情熱が共存している。」
「伯母さん、知ってるのか。」
「純子が好きだった曲だからあなたも当然好きなはずよね。」
「母との思い出の音楽だ。」
「純子が高校生の頃、私が教えてあげたのよ。」
「・・・そうだったのか。」
「純子の人生は、まるでピアソラの組曲だわ。自由を求めて情熱を吐き出して生きたけど哀愁も静けさもあったのよ。」
「優が父親に母親の面影を尋ねたところ、何も言わずにピアソラを聴かされたと言ってた。」
「司朗さんにとっては、追憶の曲だったんでしょうね。」
そう言うとナオミは大きく溜息をついた。
「優一君のお葬式をしなきゃね。」
「伯母さん、火葬してもらったらしばらく預かってくれるか。」
「いいわよ。弁護士に頼んで収監を延ばしてもらうわ。」
「俺が動けるようになったら、2人でやろう。」
「2人じゃないわ。3人、いや4人よ。」
「4人?」
「あなたと私と純子と司朗さんよ。」
「・・・そうだな。」
「入ってもよろしいですか。」
カーテンの外から女の声がした。
ナオミが振り返ると林田友紀がいた。
「村上さんのこと・・・ご愁傷様です。」
「ありがとう。あなたには随分お世話になったわね。純司に付き添ってくれたから洋服血だらけになっちゃったでしょう。」
「こんなことになってしまって本当に残念です。」
「あなた、私達の話聞いてた?」
「お声をかけようとしましたが、思わず引き込まれて伺ってしまいました。」
「悪い人ね。でもあなたなら構わないわ。」
「すみません。」
「ところであの時、何故あの場所に居たの?」
「そのことは申し上げかねます。」
友紀が面はゆい表情を見せた。
「思い切りの良いあなたらしくない言い方ね。分かってるわ。あなたは解けない疑問を解決するために私達を見張ってたんでしょう?」
「・・・」
「私が裁判で妹の話を出そうとしてそれを純司が遮ったこと、気になった?」
「はい。」
「でも、それだけじゃないでしょう?」
「お答えは勘弁してください。」
「国税局の取調べと逆になっちゃったわね。」
「申し訳ありません。」
友紀がそう言うと、ナオミの頬に涙が伝った。
「狙いは純司だったんでしょう。あなたはそのことが明らかになるのを承知で純司を助けてくれた。出血が酷かったからあなたも血だらけでしたものね。」
「何とも申し上げられません。」
「私達あなたに大きな借りができちゃった。でもここで純司と話すのは勘弁していただけないかしら。人に弱みを見せるのが嫌いな子だから。退院したら挨拶に行かせるわ。」
「承知しました。安藤さんのご回復を願っています。それと深田さんも色々とございましたのでお体には十分気を付けてください。」
「ありがとう。あなたも気を付けてお帰りなさい。」
「待て!」
帰ろうとする友紀を純司が止めた。
純司は病臥したままで友紀を見つめた。
「会うのは3度目だが、ゆっくり顔を眺めたのは初めてだ。」
「・・・」
「聞きたいことがある。」
「なんですか?」
「お前の母親はどんな人だ。」
「一言では言えないわ。亡くなったの。」
「病気か?」
「自ら絶ったの。」
「何故だ?」
「一途で真っ直ぐだったから。」
「お前はその母親に似ているのか?」
「似ているとか似てないじゃない。私の中に母は生きている。母の命を引き継いで生きているの。」
「そうか。」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「お前は俺たちの事情を立ち聞きした。こっちもお前の事情を知らないと対等じゃない。」
「言ったとおりよ。」
「分かった。借りの一部を返そう。」
「どういうこと?」
「俺の脱税の件だ。優が伯母さんから手に入れた株を担保に2億借りた。その金は俺が貰って管理している。1億は現金で残りの1億は公正証書を取った貸付金だ。それで辻褄が合うはずだ。」
「自分から脱税って言う人はあまりいないけど、そのお金は村上さんから預かっていただけじゃないかしら。あなたの脱税は想定していないわ。」
「では何故俺を見張った。」
「こうなったら正直に話すわ。狙いはあなたが虐めた税理士よ。村上さんの脱税関与は一度きりだったけど彼はかなり以前から何度も脱税の片棒を担いでいる。今回の捜査である程度の材料は集まったけど、あなたの証言がどうしても欲しいの。それにはあなた方がどんな間柄であなたがどんな人か知らなきゃと思った。」
「分かった。知っていることは全部教えてやる。」
「ありがとう。」
「その話とは別に俺の方から頼みがある。」
「何ですか。」
「優の葬式に来てくれ。」
「私が?」
「無理にとは言わない。」
「分かりました。日取りが決まりましたら教えて下さい。」
友紀はそう言うと病室を後にした。
「借りを返すのは良いとして何故あの子を呼んだの。」
「俺達にここまで関わった奴は、あいつしかいない。それなら最後まで関わってもらう。」
「あの子が気になるの?」
「気にならないといったら嘘になる。それに優が母親を取ったら俺には何もなくなる。」
「純子は、あなた方二人の母じゃない。」
「いや、あの世では優を全身全霊で可愛がってもらう。それで母も優も納得するはずだ。」
「あの子を好きなの?」
「・・・そうじゃない。俺には苦手な女だ。」
「どうして?」
「母親の魂を懐に入れて生きているような奴だからな。」
「あなたと似てるから?」
「同じようだが大分違う。」
「どう違うの?」
「俺は母との思い出を抱えて生きている。しかし、・・奴は母親と一緒に生きている。」
「じゃあ、どういうつもり?」
「これまで優だったが、これからは裏から奴を支える。」
「どうして?」
「借りができたからな。」
解説
林田友紀の母親については、「福岡物語」に描かれています。
次回が最終回となります。
・・・To be continued・・・