横浜物語-3(横浜公園のチューリップ)
横浜物語(悪魔のロマンス)-3
「お土産です。」
「何かしら。」
「食パンです。薄い方が食べやすいと思って8枚切りにしてもらいました。」
「あら、元町のイギリスパンじゃない。」
「食欲無いと仰ってたから、心配していました。」
「あなたが一緒に食べてくれるなら食欲が出るわ。早速トーストしてお茶でも入れましょう。」
端正な顔立ちに幼少の頃の面影が重なって見える。
「お父さんの後を立派に継いだわね。」
「父の頃からの事務員の方々に支えてもらってなんとか頑張れています。」
「偉いわ。」
「このお茶、なんとも甘い素敵な香りですね。」
「主人が好きだった台湾の東方美人茶よ。茶葉を蚊が汚すと甘くて香しいお茶になるんですって。」
優一が本棚の写真立てに目をやった。
「あの写真の女性、綺麗な方ですね。」
「そうね。」
「素敵な笑顔をしている。バックは横浜港ですか。」
「そう山下公園で撮ったの。かなり昔だから褪せてきちゃった。」
「どなたですか?」
「さぁ、誰でしょうね。」
ナオミは柔らかく言葉を濁した。
「小父さんの写真はどこですか。」
「二階の書斎よ。」
「拝見してもよろしいですか。」
「ええ。」
ナオミが案内した2階の書斎には、生前達也が愛用していた洒落た黒檀の洋机があり、その上に故人と二人の娘が並んで微笑んでいる大きな写真があった。
優一は、故人の写真をしばし眺めて黙礼した。
「随分可愛がっていただきました。」
「あなたのご両親とは、私達が結婚した頃からの付き合いよ。」
「父もそう言っていました。」
「結婚して元町に住んでから、主人はあなたのお父様と直ぐに仲良しになったの。何にでも興味を持って仕事だろうが遊びだろうが直ぐに没頭しちゃう主人と、いつも落ち着いて丁寧にお相手していただいた村上さんとは、まるで対照的だったけど、かえってウマが合ったみたい。」
「そのうち主人は事業が軌道に乗り出すと会社の税理士と個人の税理士を分けるって言いだしたの。私達家族の税理士はビジネスから離れて日常の交友関係が持てる人が良いって。」
「それで父に依頼されたのですか。」
「そうなの。天国でも仲良くやっているはずよ。この部屋に入ると色々思い出しちゃうから、この頃はお花を入れ替える時しか入らないの。」
「そうですか。我儘言って申し訳ありませんでした。」
「あなたなら構わないわ。きっと主人も喜んでいるはずよ。」
「母とはいかがでした?」
母親の優子は優一を産んだ際に亡くなっていた。
「私と優子さんとよくお茶を飲んだりしたけど、お名前どおりの優しい方で、こちらの心が温まるような気遣いをさりげなくしちゃう素敵な方だった。亡くなられたときは本当に悲しかった。」
「僕には母の面影がないんです。」
「優一君、あなたには男手ひとつであなたを育てた素晴らしいお父様がいたじゃないの。それにそのお父様は、お母様の名前をあなたに残しているでしょう。あなたはその名前を通じて優しかった優子さんと繋がっているのよ。」
「・・・そうですか。」
二人は、居間に戻った。
「ところで、今日は面倒なお話でまいりました。」
「税金のことね。」
夫が残した財産は膨大だった。
解説
・優一がナオミに持参した食パンは、食パン発祥の店と言われる横浜元町パン屋さんのイギリスパンです。弾力があって歯切れが良く淡白な香りの素敵なパンです。
・英国でオリエンタルビューティと呼ばれる東方美人茶は、蚊の分泌液が茶葉を発酵させることを利用して作られる甘く爽やかな香りの高級茶です。
・次回からこの物語全体に関わる事件の話に入って行きます。
序盤の主な登場人物は、ナオミ (遺産相続人)、優一(税理士)、J ( 優一の友人)です。
・・・To be continued・・・