福岡物語-5【宝泉寺温泉】
福岡物語(居場所を求めて)-5
宝泉寺温泉は平安時代の開湯とされ、湧水の趣を感じさせる爽やかな泉質の温泉である。四人は、清流に面した露天風呂にゆっくりと浸り、日頃の疲れを癒した。
夕食となった。
香り高い天然の鮎の塩焼き、採れたての山菜の天婦羅、蕩けるような豊後牛のステーキ、いずれも美味かったが、とりわけ焼き椎茸は絶品だった。
取れ立ての椎茸を炭火で焼くと、椎茸を育んだブナの原木の香気が辺りに漂い、焼かれて汗をかいた椎茸にカボスを少し垂らして頬張ると口の中で豊潤が広がった。
「この前黒木に怒られたから今夜は仕事の話はせん。酒の話でもするか。」
酒談義になった。
最初は和やかだった。
多田隈は酒を二本持参しており、
「こっちは俺の田舎の朝倉の麦焼酎、仄かな麦の甘い香りがなんとも言えん。もう一本は俺がよく飲む奄美の黒糖焼酎だ。そのままでもいけるが割るとどんな料理にも合う。」と紹介した。
松尾が、
「やっぱり焼酎は乙類ですね。」
と言うと、黒木も、
「そうだな、甲類は炭酸かなんかで割らんと飲めんからな。」
と言った。
焼酎は、その蒸留法の違いにより酒税法上「甲類」と「乙類」に分かれる。
甲類は、連続式蒸留法という大量生産に適した製法で作られるが、乙類は単式蒸留という方法で作られる。この方法で高濃度のアルコールを抽出するためには、蒸留を複数回繰り返す必要があり、手間がかかるが、その分原料の持ち味が活かされた味わい深い焼酎となる。
「やっぱり麦焼酎は福岡やな。伝統の味や。」
黒木がそう言うと、少し酔った松尾が噛み付いた。
「黒木さん、麦焼酎の発祥は壱岐だ。麦は壱岐が一番ばい。」
松尾の郷里は長崎県の壱岐である。
実際、麦焼酎の発祥の地は壱岐である。
かつて島内で生産された米は、平戸藩への年貢米となったが大麦は年貢の対象とされなかった。そこで島民は、年貢の課されない大麦を栽培して焼酎を醸造するようになった。麦焼酎生産の歴史は一六世紀まで遡り、長年その地で受け継がれてきた伝統の製法は、世界貿易機関から『壱岐の麦焼酎』として産地の指定を受けている。
「そげなちっぽけな島の焼酎やら大したことなかろうが。」
「ちっぽけな島とはなんだ。俺の故郷を馬鹿にする気か!」
「くだらんことでグダグダ言うな。」
「何がくだらんか。壱岐を馬鹿にしおって。謝れ!」
多田隈は放っておいた。
若い頃から、ずっと見てきた光景である。
(みんな疲れとるんや。全部吐き出した方が良い。)
「あんたはいつも態度がでかい。その先輩面やめて詫びてもらおうか。」
「貴様、その口の利き方はなんや。たいがいにせんとぶちくらすぞ。」
「やれるもんならやってみい。今夜は俺も引かんぞ。」
剣呑な雰囲気になった。
しばらくして、伊保が黒木に向かって、
「私の故郷の沖縄は島ですけど泡盛があります。銘酒ぞろいですよ。」
と言ってニマッと笑った。
「お前、松尾の肩を持つんか。」
「いや、自分のためです。」
「なんや、それは?」
「表に出ろってことになったら、恐らくお二人の間に割って入ることになる私が損します。私も無傷ではすまないでしょうから。」
多田隈が声を立てて笑った。
「それに、やっぱり島をけなした黒木さんが悪い。」
「黒木、今夜はお前の負けだ。今度黒木の奢りで壱岐の酒を飲もう。」
「多田隈さんがそう言うなら松尾に謝ると言いたいところだが、俺も筑後の男だ。伊保の期待に応えてやる。」
伊保が困った顔をした。
「表に出ろ。相撲だ。溜まったもん吐き出さしてやる。」
「こっちも遠慮せんぞ。」
二人が部屋を出ると多田隈に目配せされた伊保が後を追った。
小半時後、息を切らした三人が部屋に戻ってきた。
「どっちの勝ちや。」
解説
九州北部(大分、福岡、佐賀、長崎)の焼酎の大部分は麦焼酎です。
福岡は日本海型気候で、冬は雪も降り結構寒いのですが、そんな夜に40度の麦焼酎をお湯で割ると、ほのかな麦の香りがなんとも言えず、体とともに心も温ったことを思い出します。
宝泉寺温泉は爽やかな泉質が持ち味の平安時代からの名湯です。
特に源泉かけ流しの露天風呂が素晴らしい「えび亭」さんには随分お世話になりました。
序盤の主な登場人物は、多田隈(脱税捜査班のリーダー)、黒木(脱税事件の担当者)、松尾(黒木の後輩)、伊保(黒木と松尾の後輩)です。
・・・To be continued・・・