福岡物語-10【残波岬から東シナ海を望む】
福岡物語(居場所を求めて)-10
最近こそ韓国経済が実力を増し、通貨ウォンの信認が得られるようになったが、従来韓国の資産家は財産を現物の金で持とうとする傾向があり、貨物船が門司や下関に寄港する際、船員達が日本から金の延べ板を何枚か釜山に持ち込んで小遣いを稼ぐことがあった。
多くの場合、闇ルートで決済の済んだ現物の運び屋になって運び賃相当の手数料を得ていたが、なかには自腹で何枚か買い取り、韓国で売って利ざやを取る者もいた。朝鮮戦争やその後の紛争で散々に苛まれ、三八度線を挟んで緊張関係にあった彼らにとって、信頼できる財産は通貨よりも金であり、日本で普通に購入した延べ板を通関せずに釜山に持ち込めば、それだけで十分な儲けになった。
韓国経済が力を付けるにつれ金への依存度は低下したが、利幅は薄くとも関税のかからない密輸に成功すれば儲かるので、日韓の港を拠点にした闇取引は止むことはなかった。多くの場合、韓国から出航した貨物船や漁船を利用して、日本の埠頭やその近くの目立たぬ場所で取引が行われたが、海上保安庁の巡視船が取引の最大の障害だった。
接近してきた巡視船から逃れる際に、金の現物に浮輪を付けて海上に放置したものを、釣り船の客が拾って新聞記事になったこともあった。しかしながら、日本における消費税法の施行により取引の魅力は激減した。購入価格が消費税分だけ高くなったからだ。
1997年に消費税率が5パーセントになった段階で、日本での金購入価格は、韓国の需要相場より幾分安い程度でしかなくなり、危険を冒してまで密輸するメリットは失われた。
そのような状況下、免税店で土産品として販売したことにすれば、売上には消費税がかからず、仕入れる際に支払った消費税が還付されるという消費税特有の仕組みに目を付けた者がいた。
免税店の営業許可と免税品での販売伝票を用意できれば、闇で捌いた品物を免税店で販売したかのように装って消費税の還付を受けるというスキームだった。高山龍雄がそのスキームを知ったのは、覚醒剤取引の罪により服役中の時だった。
龍雄の父高鶴来は、済州島北村里の出身だった。
済州島は、朝鮮半島の南方八〇キロの海上に位置し、韓国最高峰のハルラ山が創り上げた東西に長い楕円形の火山島である。
ハルラの四季は美しい。
ツツジが咲く初夏は山腹が赤やピンクの絨毯で彩られ、秋には紅葉が彩り、冬は雪景色となる。風が強いことで有名であるが、特に冬季には北西の季節風が厳しく、島の中央にハルラ山が位置することにより、済州市などの北側では降雪もあり、家々にはオンドル部屋もある。
1960年代初頭までは貧しい島でしかなかったが、1968年に済州国際空港が開港すると観光客が訪れるようになった。その後、観光開発に力を注ぎ、国外向けにはノービザ政策を推進したことから来島者が急増した。2007年に「済州火山島と溶岩洞窟」として世界遺産に登録されると、一段と脚光を浴び、2013年には観光客が1000万人を突破するなどわずか半世紀でアジア有数の観光地となった。
済州島は、石と風と女の三つが多い「三多の島」と言われる。
火山性の玄武岩が多く、風が強く、男は海で遭難することが多かった。
女性は労を惜しまずよく働く。
河川の多くが豪雨時にのみ流れる乾川であって湧水頼みの済州では女性の労働力は欠かせず、水汲みや野良作業は勿論のこと漁労に携わる女も少なくなかった。とりわけ海女による潜水漁は有名で、日本の海女と同様に女性が潜水に従事する例は、世界でも済州島以外にないとされる。
済州の女性の気質は、素朴で直情的であり、ともすれば激情的である。
陰口を嫌い、何かあれば直接相手にぶつかって交渉し、その後は淡々としている。
しかし、一見直情的なその外見の奥には、女性らしい繊細さとともに、たとえ島外から誰がやって来ても自分らの絆は必ず守り抜くという、秘めたる強さが根付いていた。
済州島は、かつて耽羅と称する独自の国家だった。
耽羅は、邪馬台国論争に係る史書として有名な魏志東夷伝に「州胡」の名で登場する。
漢民族が名付けた州胡の州は島、胡は未開を意味し、
「又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同」(朝鮮半島の西海上に州胡という大きな島があり、島人は背が低く、言語は半島とは異なる。)と記されたのが史書上の初見とされる。
現存する朝鮮最古の史記である三国史記によれば、百済・高句麗・新羅の三国時代、耽羅は百済に朝貢したと記され、日本書紀においても耽羅は王子を日本に派遣したとの記録がある。当時の耽羅は、朝鮮半島だけでなく広く日本から中国南部までを交易圏とした海洋国家だった。統治者は、仏教に帰依し、航海の安全を祈念するため、耽羅や寄港地であった山東半島に観世音菩薩を祭る法華経の寺院を建てている。
唐・新羅連合軍の侵攻による百済滅亡後、新羅に服属、新羅滅亡後は高麗に服したが高麗は耽羅を済州と改称した。済州は、海の向こうの郡という意味である。元が襲来すると、済州島は半島から逃れて徹底抗戦を目指す高麗一派の最後の砦となるが、やがて陥落すると、元の直轄地となり馬の放牧地とされた。
李氏朝鮮時代には、朝鮮八道の一つ全羅道に組み込まれるが、海を隔てた済州島は、政争で負けた王侯貴族の流刑地だった。その後日本の統治下に置かれる。
済州島は、朝鮮開国の祖として名高い「檀君」が天神の子と人間の女と化した熊から生まれたとされる「檀君神話」とは異なる独自の「三姓神話」を持つ。済州島の地中から湧出した高・梁・夫という姓を名乗る三神人が、東の碧浪国から五穀を携えて漂着した三人の乙女を妻として迎えたのが起源とされる。
檀君神話が、古代の北方ユーラシアに広く伝わる力の象徴としての虎や熊との交婚伝説との関連が認められるのに対し、三姓神話は、地中湧出神話と海洋漂着神話を融合した神話である。
湧出神話は、耽羅が帰依した法華経で説かれる、釈迦が大地中から出現させたとされる地涌の菩薩を連想させ、また、また五穀と乙女の漂着の話は、いかにも島国らしい南方海洋系の始祖伝説であり、往時の耽羅が、半島とは異なる独自の文化を有していた証左である。
なお、高麗史によれば、三人の乙女は日本からの使いとされる。現在韓国で一般とされている伝説では、漂着した乙女について「碧浪国の使」とされている部分が、高麗史巻五七の地理志では「日本国の使」と記されており、東亜の海上の要衝に存した耽羅と日本との往時の親密な交流が偲ばれる。
済州は、古代を除き、百済滅亡から近世まで外部の支配者に対する従属を余儀なくされてきた。しかし、いかなる時代においても村民の連帯意識の強かった済州島は、「三多」とともに、「乞無」「盗無」「門無」の「三無」の済州と称され、物乞いも盗賊もおらず鍵の掛った門も必要ないとされる平和な島でもあった。
解説
これからは、捜査班と対峙する龍雄と礼子の物語です。この二人の物語には悲しい歴史が込められています。今回は、龍雄や礼子の両親の故郷について触れています。
・・・To be continued・・・