福岡物語-11【福岡城址】
福岡物語(居場所を求めて)-11
その後、未曾有の苦難が襲った。
日本の支配から解放された1945年8月15日、島民は太鼓を打ち鳴らして自立を喜んだ。しかしながら、それも束の間、朝鮮半島の全面的な共産化を危惧した李承晩政権と、これに対峙した南朝鮮労働党との抗争に巻き込まれることとなった。
1948年4月3日に勃発した済州島四・三事件以降の島民は、筆舌に尽くせない悲惨を味わうこととなる。島民は、李政権が解放後新たに派遣した軍や警察官よりも、むしろ従前から島に根を下していた南朝鮮労働党のメンバーに親近感を持ち、積極的に支援する者も少なくなかった。
李政権は、これに対抗させようと半島から反共を掲げる団体を送り込み、警察組織も駆使して南労党の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南労党は、1948年4月3日、多数の島民のシンパとともに武装蜂起を起し、その日の未明に一斉に警察署などを襲撃した。
北鮮との緊張関係の中、赤化の徹底排除を国是とした李政権にとって、南労党と一体視された島民は、やがて抹殺すべき存在と化した。それからの済州島は悲劇の連続だった。朝鮮半島から、鎮圧のための兵隊を乗せた警備船が連日入港した。
村々で村民の殺害が始まり、北村里では1949年1月に軍人数名が南労党の奇襲を受けて殺された事件を契機に村全体が軍に包囲され、多数の村民が殺害された。鶴来は、背中を撃たれながらも自分に覆いかぶさり、身を挺して守ってくれた父親のおかげで辛うじて助かった。
夫を殺された母は慟哭した。
そして鶴来に、
「このままでは根絶やしになる。お前だけは逃げなさい。」
と言ってあるだけの金を握らせた。
家屋のほとんどが焼き尽くされ、数万人の島民が殺される最中、母と別れた鶴来は親族の助けを借りるなどして必死に逃れ、漁船で下関に辿り着いた。当初は、右も左も分らなかったが、以前から住み暮らしていた同胞の真似をして廃品回収を始めた。
やがて金梨花という女性と世帯を持ち、下関駅の近くでホルモン屋「ハルラ」を始めた。
梨花も済州島からの避難者だった。
ハルラは旨いと評判を呼んだ。
ホルモン料理は下処理で決まる。
毎日鶴来が新鮮な臓物を仕入れ、それを夫婦で幾度も洗って丁寧に下拵えをし、梨花が客の感想を聞きながら味付けを工夫した。下処理をきちんと行ったホルモンは動物臭が一切せず、鍋で煮込んでもほとんどアクが出なかった。そのスープを好む客も多く店は繁盛した。
しかし苦労も多かった。
戦後の下関の復興は早く港町は活況を呈していたが、気の荒い港湾労働者も多く、客の中には料理に難癖を付けたり、酷いのになると恫喝して代金を踏み倒そうとする者もいた。
鶴来は、そういう客に支払いを求めて、罵倒され時には殴られることもあった。
しかし、鶴来はどんな時でも決して手は出さなかった。
ひたすら相手を見据え、きちんと金を払えと言い続けるだけだった。
梨花も、掴みかかりたい衝動を抑えて我慢した。
わずかながらも毎月みかじめ料を払っているその街のヤクザもいたが、夫婦が頼ったことは一度もなかった。そのヤクザから妙な手出しをされなければそれで十分だった。
夫婦は、分かっていた。
(ここは本当の居場所やない。でも、ここにおれば殺されずに済むし食べていける。)
鶴来は怒りを仕舞い込み、梨花も憤りを隠して淡々と働いた。
(我慢して金を稼ぐんじゃ。わしらは金しか頼れん。)
国際法上の観点からすれば、本来鶴来達は、当時の韓国政権から共産主義に加担したと見做されて制裁される虞のある難民として庇護されるべきであったろう。そうであれば、無事に済州島に戻れる日が来るまでの間は、避難先である日本の保護の下で平穏に居住する権利が与えられ、不法入国や不法滞在を理由とする処罰を懸念する必要はないはずだった。
しかし、日本が難民の地位に関する条約を批准するのは1981年であり、日本に密航してからの鶴来達は単なる不法入国者でしかなかった。入管当局に見つかれば収容所に送致され、強制送還となるかも知れなかった。
現実には、李承晩政権は日本が摘発した密入国者の受け入れを拒否しており、直ちに強制送還となる可能性はなかったが、日本の法によって守られることのない不安定な立場であることに変わりなかった。
在日朝鮮人に対する当時の日本政府の対応は冷淡だった。
1949年、吉田茂首相は、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに対し、送還費用は日本政府が負担するとした上で、在日朝鮮人の全員送還を望むとした「在日朝鮮人に対する措置」と題する嘆願書を提出している。 送還させるべき根拠として、日本の食糧事情が厳しい状況下、大多数の朝鮮人は日本経済の復興に貢献せず、多くは法令の常習的違反者で更には悪辣な政治犯罪を犯す傾向がある等を挙げた。
何時摘発されるか知れない不安な日々から逃れるために、他人の外国人登録証を買う者もいた。鶴来も摘発は怖かったが、他人の名義を買って生きようとは思わなかった。
命をかけて鶴来を守った父から受け継いだ大切な姓であり、済州島において「梁」、「夫」とともに三姓として尊称される「高」を他の姓に変えて生きることはできなかった。そういう自分達に出来ることは、「目立たぬように商売する」ことだけだった。
どんな時でも、騒がずじっと大人しくして何を言われても耐えた。
密航してから二〇年近く経た1965年になり、漸く永住資格を手に入れることが出来た。
この年「日韓基本条約」及び在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」が結ばれ、韓国籍であるとして申請した者には、それまで暫定的に与えられていた在留認定ではない「協定永住」の資格が与えられ、永住が法的に保証されることになった。
協定永住の資格を取るための要件としては、本来1945年8月15日以前から日本に在留している者であるべきところ、日韓が融和基調へと動き出した状況の下、鶴来達が家庭を構えて事件を起こさず平穏に生活していることなどが考慮されて永住資格を取ることが出来たのだった。
少しずつ金が溜まって行き、夫婦は、日本で成功して故郷の島に帰る日を夢見た。しかし、凄まじい混沌が生じ、その混沌がとてつもない悲惨を産み、そしてその悲惨の全貌について誰もが口を閉ざす状況が続くその島に帰れる日は来なかった。
ちなみに、今なお戦時体制が継続し反共を国是とせざるを得ない韓国では、四三事件を語ることが半ばタブー視され、現在も責任者の公的な追及は行われていない。なお、2006年に盧武鉉大統領が漸く四三事件の慰霊祭に出席し、島民に対して謝罪するとともに事件の真相解明を宣言したが、未だにその進捗は窺えない。
日本に密航した済州島出身者は、その過酷で悲惨な体験を忘れられず、半世紀近くの間、祖国の済州島を訪れるものは稀だった。
東京オリンピックが開催された1964年に礼子が生まれ、6年後の大阪万博の年に龍雄が生まれた。鶴来が、理不尽な暴力を振るわれても決して手を出さなかったのは、当初は自分たちが日本から排除されることなく生活を続けるためであったが、その後一応の安住を得て子供が生まれてからは、子供の行末を考えてのことだった。
(日本で生まれ、日本語しか話せんこの子らは日本人として暮らした方が良いかもしれん。)
鶴来はそう考えるようになった。
日本への帰化の要件を規定する国籍法五条では、要件の一つとして「素行が善良であること」を挙げており、たとえ売られた喧嘩でも暴力事件として訴追されるわけにはいかなかった。
(喧嘩になって犯歴がついてしまえば、帰化はできなくなる。)
済州島に帰れる見込みがなく、これから子供達が生きる場所が、もしかして日本しかないのであれば、そのための努力を惜しむわけにはいかず、犯罪に巻き込まれるわけにはいかなかった。夫婦は、島のことを忘れたかのように一生懸命働き、子供達を敢えて日本人と同じ学校に入れた。虐めや差別が子供達に降りかかるのは覚悟の上だった。
小学生だった礼子が鶴来に訴えたことがあった。
「物が無くなると、日本人は必ずうちらのせいにするんじゃ。先生まで疑うんよ。」
「ここは日本じゃ。わしらは住まわしてもらっとる。我慢するんだ。」
「しかし同じ人間やないの。日本人はうちらに冷たすぎる。」
「日本人にも色々いる。良い人もいればそうでない人もいるだろう。」
「一人一人の時は大人しいけど、集団になると、朝鮮、朝鮮って非難するんよ。」
「礼子、言っておくことがある。」
鶴来は、そう言うと煙草に火を付けた。
「日本人の学校に行ったら色々言われるのは分かっとる。子供のお前にそう言うのは酷だが、苛められて弱音を吐くか、それを乗り越えて堂々と生きるのかはお前次第じゃ。お前を朝鮮人の学校に入れても良かったが、どうせその先は同じ苦労をするはずだ。それなら早い方が良いと思ったんじゃ。」
「お父ちゃん、差別はいけんことだよ。先生もそう言っとる。」
「お前のいうとおりだ。しかし現に差別はある。その差別があることを分かった上で、差別を飲みこんで生きるしかない。」
「お父ちゃんは、日本人に何言われても我慢しとるだけやないの。それでいいんか?」
そばで聞いていた梨花が、礼子を叱った。
「礼子、何を言うの。うちらがこうして生活できるのは、お父ちゃんのおかげやないか。子供のくせしてお父ちゃんに向かってこれ以上言ったら許さんよ。」
そう話す妻を遮って鶴来は言った。
「いいか、礼子、お前は賢い子じゃ。今から話すことをよく聞くんだ。お父ちゃんとお母ちゃんの故郷は済州島だが、おそらくもう帰れんじゃろう。でもお父ちゃんはな、済州島北村里の高鶴来だ。済州島の三姓の筆頭と言われる高なんだ。その血を絶やさないように願いを込めて、親達が命がけで日本に逃がしてくれた。この日本はよその地じゃが、お父ちゃんとお母ちゃんはここで生きることにした。これがわしらの定めなんだ。だから大概のことは我慢できる。お父ちゃんが我慢せんときがあるとしたら、それは、お前や龍雄が本当に危ない時だけだ。」
無口な父がこんなに長々と話したことはこれまでなかった。
真剣にそう話す父の眼を見た礼子は思わず涙ぐんだ。
父の後、梨花もこう言った。
「礼子や、済州島の女は芯が強いんよ。そこいらの日本人に負けたらいかん。悪口言われても全部飲みこんでにっこりしとくんじゃ。」
中学から高校に進むにつれ礼子への虐めはなくなっていった。
大人になりかけて美しさが際立ってきた礼子を面と向かって罵倒する男子生徒はいなくなり、むしろ憧れの対象と化したからだ。
元々女子の友達は多かった。
高校では弓道部に入った。
弓道部の先輩が、弓道は自分も相手も傷つけることのない武道だと話していたのが気に入ったからだ。集中力を持って的を狙い、矢が的に当たる爽快感はなんとも言えなかった。
道場にすらりと立ち、姿勢を整えて弓を引き絞る礼子の姿は、凛として美しく、それを見ようと立ち見する生徒もいた。
解説
捜査班と対峙することになる龍雄と礼子が育った環境について書いています。この二人の物語には悲しい歴史が込められています。
・・・To be continued・・・